もう40年も昔、三年間同じ道を共に歩いた仲間とネットを通してですが再会する機会がありました。
一瞬にして当時の関係に戻ることの不思議さを味わう反面、卒業後別れた道は途方もなく遠く長く、その道のりを頭では計り知る由もありません。
操法をしていてフト背中やお腹から感じるものは、その人の生きてきた人生の道のりかも知れません。言葉にできない重く深いものをほんの数秒、数分ですが受け止めてしまうのでしょうか。
例えば背骨に触れながら、何年も前のつらく悲しい我慢や行き場のない憤りを感じたりします。
それは言葉に置き換えれば、単に胸椎何番の硬直や捻れなどと言ってしまいます。
結局のところ硬さなどの異常が取れれば症状が無くなるには無くなりますが、本当はその硬直の元は、昔胸にしまい込んで本人も忘れてしまった感情や場面の記憶であったりもします。
急処を押さえて気を通していくことは、その人生の滞りを再び感じてもらい、流していく作業でもあります。そんな時は操法をするこちらも何らかのものを感じています。
体を骨や筋肉の塊としてではなく、ひとりの人間の人生という道のりや感情や思考の塊であることを感じると、なんとも険しい山に登ろうとしていることに改めて気づきます。